命と向き合った最後の時間

病院に運ばれ、主治医からのお話

対策として腎臓に管を入れて人工的な尿の排出の提案でした。

こんなに痩せ細り、あちらこちらに管があるのに、まだ管つけるの?

病院は医療なので仕方がないのかもしれません。でも寿命として、それで命をどこまで延ばせるのかは疑問です。これはさすがに考える時間をもらいました。

本人の心的負担と最後までの時間とケアをする方々への配慮など、悩みに悩んだ末、そのまま何もせずに点滴で体調がおちついたのを見て翌朝連れて帰りました。

年末に差しかかり、むくみもひどくなり、本人も年は越せないかもと自覚があり義母へ感謝の気持ちと品など、旦那様にお願いしながら用意を始めました。

ある日の夜、妹の長男がお風呂から大泣きで出てきました。「何事?」

一緒に入っていたパパに事情を聞いたら、ママはもうすぐいなくなるという話をしたようでした。4歳という年齢で死を理解する、大変なことです。ママには最初の子で、とてもかわいがられていただけにショックも大きくなったのだと思います。しばらくの間、泣いていました。

その後ある日突然、身体が重くてつらかったのか、何がどうなったのかよく理解が出来ませんでしたが、 ベットの上で体を右に左に持てる力を振り絞りもだえ始めたことがきっかけで、その後から尿の出が奇跡的によくなり始めました。

そして年越しができました。

父と母もどうにか来ることができ、元気ではありませんでしたが年末の状態よりはかなり落ち着いていた妹の容態でしたので、久ぶりに娘の顔と孫の顔を見てお話できるする事ができました。

お正月が過ぎその後、奇跡的に子供たちの保育園の日々の日誌にママ自らが書き込みをすることができた日が二日程度ありました。字体はヨレヨレとした文字でありましたがしっかりと書き込まれてました。

最後まで子どもたちのママだもんね。

それから日々寝ている時間が長くなりながらも、まだ暖かい体温がある体を足をさすったりしながら過ごしました。

1月の日曜日、大雪が降りました。これはさすがに家から出るのが大変、まずは家の前の雪かきやらなんやらと、交通も大変乱れが生じているようで、この日は出かけるのをやめて明日に変更。

翌日、お手伝いに。

顔がどんどん小さくなっています。酸素マスクをしているせいか、口は乾燥してしまいカーゼを湿らして唇を拭いてあげるなど、この日は目を開けても会話することもなく終わってしまいました。

この日の夜、なんとなく眠れない胸騒ぎがする夜でした。

やっと寝つけた明け方の事、睡眠中の中、何かが素通りするような錯覚と共に妹の声が聞こえました「ありがとう」

ん?少し間があってから電話の着信がありました。

1月16日、明け方の5時頃だったと。「今、逝きました」