闘病を見つめて7

10月の下旬ごろでした。救急車で運ばれたの知らせが。

体調が優れず、発熱、倦怠感、の症状。

誕生日以降、体調が少し落ち着いていたので、突然の連絡にビックリでした。

また入院生活が始まりましたが、「今度はできる事がない」どうやら腸の中がぐちゃぐちゃになっている模様、でも最後にお腹を触ったのは今の病院ではないので回復してみるような事はしない、でも腸閉塞を起こしているのは間違いなさそうという判断。

できる事はお家で過ごす時間を増やすこと、子ども達と一緒に過ごしていたいという事から、IVH(中心静脈栄養)に切り替えをすすめられました。

首の付け根の辺りを切開して、心臓近くの太い血管にチューブを接続するためのカテーテルの挿入です。首の付け根?こればかりは本人も大変怯えていました。私が付き添いだったのですが、予定時間よりも結構な時間が経過しても終わらず、何かあったのだろうかと冷や冷やしながら待っていたのを思い出します。

担当の医師のお言葉は、IVHにして5年生きた人もいるというお話。旦那様が点滴の取り替え方や使い方など指導を受けて体調が安定したのを見計らいお家へ帰宅。

ここからは、訪問看護+在宅医療という形に。

ストーマや点滴の管理など生活上にやっていかなければいけない事もたくさん増えました。それと同時の子ども達のお迎えや食事の支度、在宅の訪問時の対応など義母と旦那様だけではとても重荷になるので、一週間のうち、みんなで交代でやることにしました。

栄養が口からの食べ物ではなく、点滴に切り変わり、痛み止めの薬の量も多くベットに横になっている時間が増え始めてきました。

点滴に切り変えてからは、脚はパンパンにむくみだし、なんとも痛々しい。マッサージしたり足だけの入浴をさせてみたりとできる事はやりながらの毎日でもありました。

唯一、病院のベットではないので、少しだけ調子のいい時間帯には子ども達がベットに乗って一緒に横になったり、お話したりとこんな時間が長く続いてくれればと微笑ましい時間もありました。

12月に入って癌の腫瘍マーカーが4桁という数字。私、なんていえばいいの?とっさに東洋医学の先生の本で読んだときの腫瘍マーカーの数字、「5桁があったよ!」覚えていてよかった。「そうなんだ」少し安心していました。

とは言え、かなりの痛みがあったのではないかと思う毎日、これはさすがに年は越せないかもというみんなの不安がありました。

お見舞いという形で身内へのお知らせ、仲良くしていた人達への訪問をお願いしました。子ども達には最後まで何も告げずという選択でした。

年末に差し掛かった頃、また体調が悪化、発熱、身体がむくんでいるのと尿が出にくくなり始めていました。

慌てて病院へ運びました。